2012年2月24日金曜日

OKプラトー

久々のブログ更新になってしまいました、今回はあおのが担当します。

『クーリエ・ジャポン3月号』を読んでいたら、”1年で「記憶の超人」になる究極の脳トレ”といったコラムが載っていました。(コラムの本筋とは少し離れますが)その中で、「新たな技術の習得」について心理学的な見解が書かれていました。

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60年代、心理学者のフィッツとボスナーは新たな技術の習得について、次の3つの段階があると示したそうです。
  1. 技術向上のために課題を分析して戦略を立てる「認知段階」
  2. 技術的な間違いが減り、効率化が進む「連合段階」
  3. 技術が熟練し、まるで自動で操縦しているかのように課題をこなすことができる状態になる「自動化段階」
「自動化段階」までフェーズが進むと、その技術に意識を集中する必要がなくなり、別の重要な課題に意識を向けられます。一方で、自動化段階まで達することにより、その技術の上達はストップすることが非常に多い。この、ある技術が納得いくレベルまで達することで生じる停滞を「OKプラトー」と呼ぶそうです。

この「OKプラトー」が人間の能力の限界を示すものだと、多くの心理学者がかつて考えていました。しかし、優れたメンタル・アスリートたちは、皆だいたい同じ練習法で「OKプラトー」を脱するそうです。彼らは皆、常に目標を意識し、自分の成績に関するフィードバックを即座に受けて戦略を発展させ続けるといいます。

例としてフィギュアスケート選手が挙げられています。トップレベルの選手は、着地で失敗しやすいジャンプを頻繁に練習する。一流になれない選手は、すでに習得したジャンプばかりを練習する傾向がある。
結局よく言われる一般的な考え方に帰結してしまうのですが、ある能力を向上させ続けるには、自分が限界だと感じるレベルを超えられるように常に自らを追い込み、失敗の原因を追求しなければならないそうです。そうしなければ「OKプラトー」の水準で成長は止まってしまう。


これは当然スポーツの世界だけで通用する話ではなく、何にでも当てはまる話だなと思って興味深く読んでいました。
「できること」ばかりやっているのもある意味心地良いとは思いますが、「できること」より少しでも難しいレベルを目指していくほうがより楽しそうではありますね。

なーんて偉そうに書いてますが、僕はまず「連合段階」、そして「自動化段階」に達するまでの努力が必要でした。。。「1万時間の法則」なんてものもありますし、例えばエンジニアなら1万時間くらいはコーディングをしないと、「OKプラトー」すら経験できないのかもしれません。

成長し続けることって本当に大変なことなのだなと考えさせられた記事でした。

今回は以上です。

2012年2月21日火曜日

卒論を書いていて感じたこと

今回は井端が記事を担当します。


今月20日に卒業論文を書き終わり、
「とりあえず終わったし、今後論文書かないしもうどうでもいいや」
で終わらせたくないし、何点か論文に限らず大事なことだと
感じたことがあったのでまとめます。


1、自分が戦う土俵を注意深く選ぶ


自分が戦う土俵を注意深く選ぶことはかなり大事だと感じました。
僕の場合、最初は単純に
「自分が興味があるかどうか」ということだけ考えていました。
もちろん興味があることは大前提だと思います。
しかし、それだけでは不十分なことに気づきました。

まず、「それは本当に自分が時間をかけてやりたいことなのか」を考えること。
そもそもこれが揺らぐ場合は、
モチベーションが下がったときに頑張る力が出ませんでした。
僕の場合はこれがうまくいかなかったので何度もテーマの設定をし直しました。

次に、「実現できるのか」を考えること。
アイディアを出す段階は楽で楽しいですが、
実際に書くと「この案考えた奴(自分)はアホか?」と思うほど大変でした。
内容は示したい最小のものに抑えて、まずは完成させ、
本当に必要のみ内容を追加するがベストだと思いました。

また、「敵がいないか」を確認すること。
すでにその分野の達人が議論し尽くしたトピックを選ぶと悲惨です。
そもそもすでに結論が出ているのであれば研究の必要がなくなります。
ユニークかつ新しい分野やアプローチを探すことが、
その後の研究の進み方に大きく影響しました。

僕は、論文提出締め切り日の前日に、
自分とほとんど同じ研究をしている論文を発見しました。
相当ガックリしました。「俺の論文、意味なくね?」と。
幸い若干アプローチが違った(と信じています)のでそのまま進めましたが、
もっと先人に学ぶべきだったなと痛感しました。



2、常に軌道修正する


次に、自分が書いた文章も時間が経てば(研究が進めば)
「なんかこれおかしいぞ」
と感じることが多々あるということ。
「自分が書いた文章なんだから内容覚えてるし大丈夫」というようには行かず、
常に「本当にこれで大丈夫か」と疑うことが必要だと思いました。

論文を書いている間、僕は「窒息」に似た窮屈な感覚をずっと持っていたのですが、
おそらく、この「本当にこれでいいのか」と考え続けることに
疲れていたことが原因なのかと思います。

でも、最終的に納得のいく成果物を得るには
これは絶対に必要なことだとも感じました。
時間が経って「なんか変」と思うのは、
時間経過によって客観視できるようになったからであって、
その時に感じたことをちゃんと作品に還元できるのかどうかが、
最終的な出来の違いなんでしょう。

この「これで大丈夫か」という感覚を持ち続けることの大変さと、
そのモチベーションを維持する方法を考える機会があったということは
なかなか貴重な経験だったのかなと思います。


3、「本当に必要か?」を考える


(2点目と少し重複しますが)内容を常に「スリム」に保つことも大事なと感じました。
「あまり必要ないもの」を捨てて、「必要なもの」のみを入れること。

何より、その方が作業しやすい。
何をどこに書いたのか思い出しやすいし、手直しも楽にできました。
また、読む方も内容を追うのが楽。
書く方はわかっていても、読む方が理解できなきゃ意味ないので、
スリムであることが親切ですね。

幸い、僕の場合は字数指定がありませんでしたので、
ガツガツ文字数を削ることはできました。

スティーブ・ジョブスが何かのインタビューで、
「最高の製品とは、これ以上機能を【追加】できないものではなく、
これ以上機能を【削れない】ものだ」というようなことを言っていましたが、
論文を書くことにおいても当てはまるような気がします。


4、「氷山の一角」を必至に作る


論文を進めるにしたがって感じたのは、
「成果物は、中間生産物の一部にすぎない」ということ。
過程でどんなに生産しても、
最終的に目に見える部分は本当に少ないものですね。

卒論を始める前は、「頑張った分だけ、
そのまま成果になる」くらいに考えていました。
しかし、実際にはグラフ一つ作るために
膨大な時間をデータ収集に費やさないといけないし、
たった一つの文章の正当性を確認するためだけに、
様々な参考文献を当たらなきゃいけない。

これに気づいて、今まで読んできた論文やら本やらも、
相当時間をかけて、脂肪を削った結果、
やっと世の中にでてきたものなんだなとしみじみ感じました。



。。。大体感じたのは以上のようなことです。
この気付きをどこまで普段の生活に落とし込むのか次の課題ですね。


おわり

2012年2月14日火曜日

プロセスではなく、結果を意識する事。

こんにちは。今回は森山が書かせて頂きます。



いよいよ、就職活動もかなり活発になり、多くの方がリクルートスーツを着て大学などに来ているのをみかけます。

僕も、関西の学生を採用するという事で今積極的に活動しています。

就活生にビラを配ったり、テレアポをおこなったりと
今までではなかなか経験できなかった事を最近多く経験しています。

その中で、ふと見失いがちな結果を意識するという事

例えば、学生に対し集客目的でビラなどを配る場合、
よく1人何枚という目標があります。

では、100枚配った人よりも、200枚配った人の方が貢献しているのでしょうか。
おそらくここのプロセスで満足感を得てしまう学生も多いのかもしれません。

しかし、あくまで結果は何枚配ったかではありません。
何人そこから集客に繋がったかという事が大事なのです。

100枚配って3人来ても、3枚配って3人来ても結局同じ事なのです。
結果を意識すると、配り方も口調もまるで変わってくるかと思います。

100人にビラを受けとって貰うやり方で行うのか。
3人にでも魅力付けできるような配り方をするのか。

僕の採用活動に関しても同じです。
採用を実現するべく、良い学生に沢山出会う。
そのための手段として、就活イベントの企画などを行っていますが、
ここに満足感を得てはいけません。

プロセスの部分が大きくなればなるほど、プロセスに満足感を得てしまいがちですが、
大事な事は常に、結果を意識する事。

何のためにこれを行っているのか。
最終的にはどうあればいいのか。

常にこれらの結果に対して意識をおきつつ
行動していきたいと思います。

2012年2月1日水曜日

やりたいこと、必要なこと

今回の記事は井端が担当します。


少し堅い話題ですが、
最近、組織の中でどうあるべきなのか、
ということについて考える機会が多かったので、共有します。


今インターンを初めてかれこれ11ヶ月が経とうとしていて、
インターンを始めた時とは少し心の持ち様が変わってきたことを
感じています。

それは、「やりたいこと」と「必要なこと」の違いを
少しですがわかるようになって来た、ということです。


インターンを始めたばかりの頃は、
焦点は完全に自分自身にあったように思います。

「僕はどうやったらこれをできるのか」
「僕はどうやったらこれを早く終わらせられるのか」
「僕は何をすべきなのか」
「僕はどんな問題を抱えているのか」

そして、心のどこかで、
「これは結果的に組織全体のためにもなるだろう」
と、考えていました。

つまり、考える順序として、
「個人 → 社会(組織)」
という順序だったということです。



しかし最近、これはかなり独りよがりな妄想なんじゃないか
と思うようになりました。

きっかけは、僕が頻繁に読んでいる山本敏晴さんのブログのとあるエントリーです。
(すみません、どのエントリーかはわかりませんでした。。。)

このブログでは、主に国際的な問題や、国際協力の実態などに
関する話題が取り上げられています。
山本さんは、国境なき医師団の理事をしていた方で、現場を
現実をわかりやすく説明してくれます。

僕が読んだそのエントリーの中で言われていたのは、
だいたい以下のようなことです。

「国際協力がしたい、国連で働きたい、という若者のほとんどは、
実は、『国際協力』を通して自分に箔をつけようとしていたり、
単純に自分の専攻研究の延長上に考えていたり、自分で勝手に分野を
特定してそれ以外は無関心、というような人が多い。

しかし、本当の意味での国際協力、というのは、

いかに自分が興味・関心の無い分野でも、それを必要とする人が
いるのであれば、全力でそれを習得・訓練し、その人や社会に
還元して行く、そのようなプロセスであり、このような態度を
持ち続けて、世界をよくしようとすること。 」

少し僕の勝手な解釈が入っている箇所もありますが、
7割くらいは合っているかと思います。

ここで書かれていることは、何も国連や国際NGO・NPOに
限ったことではないと思います。


そこで自分の働き方を考えて、心にグサリと来ました。

僕がそれまでやっていたのは、
「組織にとって本当に必要なこと」なのか、
単純に僕が「やりたかった」ことなのか。


おそらく、後者であることが多かったように思います。
結果的にこれが組織の利害と一致する場合には特に問題は
無いように思います。

しかし、時間が立ち、社会が変化し、組織が変化するにつれて
必ずこの問題は目に見えるようになります。

そこで、「やりたいこと」ではなく、「必要なこと」に
心底注力できるのかどうか、これが組織としての最終的な
パフォーマンスにつながるんじゃないかと思います。

以前の「プロフェッショナル」で、
Googleの及川さんを特集していました。

その中で及川さんから出たフレーズに、

「世界を変えるのは、チーム力」

というものがありました。
プログラマーとして非常に高い能力を持つ及川さんが、
これを言うんですね。。。きっとそうなんだと思います。

チーム力という言葉には色々な思いが込められているかと思いますが
その中に僕が見出すのは、
「『組織として必要なこと』にどれだけ注力できるのか」
ということかなと思います。


組織としての成長・発展の先に、結果的に自分の成長が付いてくる。

「チーム  → 個人」

それが、社会・組織・チームの中での、成長意欲ある個人のあり方
なのかなと、最近は思うようになりました。


今回は以上です。